第33回目は、弊社メールマガジンの連載 「劇伴一直線」では、フィルムスコアに対するアプローチ手法をテクニカルな面だけでなく、映像の心情描写を担う音楽のありかた、という視点で深い部分まで紹介され、読者の皆様から多くの反響を頂きました。また、ビクター青山スタジオで行われたオーケストラセッションでの緊張感溢れる劇伴収録現場にお招き頂き、レポートする大変貴重な機会を頂きました。今回は、井内さんのパーソナルな部分に焦点を当てそのバックボーンに迫ります。

2015年05月11日取材

運命を変えた事件その1
母親に誘われて行ったコンサート。

Rock oN(以下、R):連載 「劇伴一直線」ですが、「あんな濃い内容をタダで読めるなんて素晴らしい!」といった反響を頂き大変好評でした。これまで、色んなお話を伺ってきたわけですが、今日は趣を変え、井内さんのパーソナルな部分について伺えればいいなと思っています。まず、音楽に触れられた頃のお話をお伺いできますか?

井内啓二氏(以下、井内):母親がピアノの先生をやっていて、生まれた時から自宅にグランドピアノが母親用と生徒用に2台ある環境でした。自分自身がピアノのレッスンに通ったということはないのですが、家では常に音楽が流れていたり、車の中でもチャイコフスキーが流れていたりと音楽が身近にある環境でした。

R:音楽の目覚めはクラシックからということですね。では小さい頃からピアノのお稽古をしていたということですか?

井内: いえ、ピアノはお稽古というよりは家の中で軽く触る、という感じでした。中学生の時はバスケットボールをやっていたし、漫画、アニメ、ゲーム、映画が好きな少年で、音楽の英才教育的な世界とはまったくかけ離れた普通の少年時代でした。小学校2年生の時、忘れもしませんが「ドラゴンボール」の連載が始まって、北斗の拳、キン肉マン、、、、いわゆる「週刊少年ジャンプ世代」ですね。全国規模で流行ったので、今、同じ世代の人と話すと、ほとんどの人が同じバックグラウンドを共有していて面白いです。ポップスの分野で初めて買ったCDはマイケル・ジャクソンの「Black or White」ですが、なぜそれを買ったかというと、文化祭で流れていたのを耳にしたのですが、音の抜け方がずば抜けてよくて、子供ながら「音がいいな。」と思ったのです。

R:「音がいいな。」という捉え方ですか。普通、マイケルだったらダンスに関連付けたりして「かっこいい曲だな!」とか思うわけですよね。井内さんはマイケルの曲に対してじゃなくて、音質に耳が行っていたということなんですか?

井内: 多分、そうだったんだと思います。でも、それ以降、マイケル・ジャクソンのCDを続けて買うでもなく、自分で買うのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、「ダイ・ハード」、「宇宙戦艦ヤマト」といった映画やアニメのサントラが多かったです。あと、ゲームも大好きで、当時の家庭用機は全て持ってましたし、「天外魔境II 卍MARU」の音楽は「かっこいいなぁ。」と思ってました。 高校は推薦受験で合格していて、部活も終わったので時間があるということで中学3年の夏が終わった頃に母親に誘われ、あるピアニストのコンサートに行ったんです。当時はいわゆる神童ブームで、僕と同じ歳くらいのロシアの少年が地元にやって来ました。そこで彼がベートーベンの「月光」を弾いたのですが、生まれて初めて音楽に感動し、僕の興味が180度変わってしまったんです。「ピアニストになるにはどうすればいいんだ?」と、音楽を真剣にやりたいと思うようになりました。コンサートが終わり、ロビーで販売してるCDを「全部買って!」と母親にお願いし、そのピアニストのCDだけを毎日聞くようになり、真似をずっと続け、自分でも「イケてるなあ、俺、ピアノのプロになれるんじゃないかな。」と思うようになったんです。井の中の蛙的な思春期感満載の思い込みなんですが(笑)。

R:それが、その後の人生を方向づける音楽の道への分かれ目ということですね。 井内さんの15の夏は、人生において「暑い夏」だったんですね?

井内: そうなんですよ(笑)。 それで、母親が町に住んでる音楽学校受験の先生を探してくれて会いに行ったんです。その時既に中学3年の10月くらいなんですが。でも、先生に「このレベルで本当に音楽高校を受験するんですか?」と、とても寒い感じに言われてしまい、逆に自分に火がつき、朝から晩まで猛練習したんです。幸い、受験は練習曲と課題曲の2曲をピンポイントで弾くので、「なんとかやりこなせば合格する可能性はあるんじゃないか。」と思ってました。

井内: 実は、親族一同は大反対だったんです。ピアノ教師だった母親と、父方の祖父の兄弟に井内慶次郎という文部事務次官になったおじがいるんですが、この2人だけが賛成してくれて、後押ししてくれたんです。幸い、慶次郎さんの発言力が大きかったので、親族一同をまとめてくれました。私の啓二(けいじ)はペンネームで、本名は求生(ひでお)なんですが、読みにくいということもありそのおじから頂いてペンネームにしています。猛練習の結果、ピアノ科に合格することができましたが、ピアノの実技は下から数えた方が早いレベルだったと思います。好きだったサントラの耳コピーを趣味でずっとやってたこともあったので、ソルフェージュの成績だけは上位でした。



朝5時に起床しピアノ特訓。スポ根的高校生活。

R:お話を伺ったぶんには、受験準備期間があまりにも短かったわけなので、本当の実力が伴っていたかどうか気になるところですが、入学されてからの学校生活はどうだったんですか? うまくいったんでしょうか?

井内: 実は、入学してすぐに僕だけ三者面談で呼び出されまして「今だったら進学コースへの転入も可能ですよ。」と学校側から考え直すことを促されたんです。学校にしては、この成績で卒業しても音大への入学はかなり難しいので、将来へのアドバイスとして、という意味があったのだと思います。でも自分では、たった2、3ヶ月の準備で受験を突破したという自負が不思議とあって、1年後には状況が大きく変わってるだろうという思いがありました。高校1年の時から、朝5時に登校して1時限が始まるまで練習し、昼休みも弁当食べながら練習という生活を続け、1年の後期試験の実技で学年の1番になることができたんです。

R:そんな短期間で? それはすごいですね!音楽学校とはいえ、まるでスポ根みたいな生活じゃないですか。

井内: でもですね、、成績上位2人に対して2年から藝大の先生がみてくれるというシステムがあったんですが、ハードルが上がったら上がったで、「あなた、こんな状態で受験どうするの?」とさらに厳しく言われ、また練習に打ち込む、という日々が続くことになりました。高校卒業後、桐朋学園大学に入りましたが、入学時の成績は下から数えた方が早いくらいだと思います。演奏に関するテクニックはなかった訳ですが、反面、音楽性については良い評価をもらっていて、なんとか落第することはなかったのですが、、、

R:なかなか試練の日々が続きますね。桐朋学園大学では、まわりの生徒はどんな感じだったんですか?

井内: 英才教育を受けてきた超エリートばかりで、日本中から精鋭が勢揃いという感じでした。僕だけ浮いた感じがしてアウェイ感が常にありましたよ(笑)。でも、学生時代に同世代の優れたプレーヤーに出会えたということが、今になって貴重な財産になっているように思います。

普通の少年が送る生活から、1つのコンサートがきっかけで一転。以降、流れに飲まれるように音楽人生へそんな感じの出だしでした。もし、井内さんのお母さんが中3の夏にコンサートに誘わなかったら、井内さんの人生は違ったものになっていたのでしょうか?当然、誰も分かり得ない話ですが、「全ての出来事には起こるべき理由がある。」というようなことも思ったりします。 続いて、井内さんの人生の方向に影響を与える重要な出会いが続きます。



運命を変えた事件その2
中西俊博さんとの出会い。

R:その頃、音楽で食べていきたいとか、卒業後の進路のことは考えていましたか?

井内: 全く考えてませんでした。入学早々、まわりが凄すぎたのでプロのピアニストになるのは無理だなと早々に知ることになりました。桐朋学園大学のピアノ科は、世界にソリストを輩出する場所なので、個人の経歴に光り輝くものがないと卒業後のキャリアを築きにくいんです。それで、現実的な選択肢を探す訳ですが、幸いに、大学3年の終わり頃、バイオリニストで作/編曲家の中西俊博さんに偶然にお会いするチャンスがあったんです。その出会いを通して、僕がそれまで大学でしか知らなかった世界を超えた、音楽活動の可能性のありかたを知る事になりました。中西さんのご自宅にも出入りするようになり、「君、打ち込みやらないの?」と言われたのですが、「打ち込みってなんですか?」という感じだったんです。それからMac Performa 630を買って、初めて音楽制作の現場に入ったのが二十歳の時でした。東急文化村を会場に、布施明さんと森山良子さんが出演、白井晃さんが演出された舞台作品なのですが、その音楽監督を中西俊博さんがやられていて、その現場の助手としてお声をかけて頂いたんです。その時、Macを買ってたったの3ヶ月で、「ドンカマって何ですか?」、「キックって何ですか?」という状態だったのですが、初歩的なことを始めとして、中西さんの現場では、本当に様々なことを勉強させて頂きました。

R:音大にいらっしゃったので意外に聞こえますが、井内さんはピアノ科だったということで、音楽のなかでも「演奏家の世界」にいらっしゃったからですね。Mac以外の機材はどうでしたか?シーケンサーは何を使ってました?

井内: Logicでした。当時のシーケンサーの中で分解能が一番良かったからです。MIDIインターフェースはEmagic Unitor 8、音源はE-Mu ProteusシリーズやVintage Keysなど、ミキサーはYAMAHA 01V、マスター鍵盤はKORG Trinityを使ってました。

R:当時では、なかな贅沢な環境じゃないですか?どんな基準で購入されてましたか?

井内: 機材選びについて本当に大切なことは、「どういう音楽を作っていて、どういう音の表現を目指しているからこの製品を選ぶ。」ということだと、今でこそ思うのですが、当時はそんなことを抜きにして、「モノとして、今、何がいいのか?」みたいな感じで、自分の音楽に必要のなかった物まで沢山買ってた感じです。20代中頃までは機材を積んだエレクターに囲まれた制作環境でした。Roland TR-808を買ってMIDI改造したりもしましたが、僕が作っていた音楽とそんなに関係なかったんですよね。。。

R:子供の頃、全ゲーム機を持ってたということでしたが、もともと機械が好きな面もあったからじゃないですか?

井内: そうですね。当時は「自分の音楽に満足出来ないのはE-mu SP-1200を持ってないからなのか?」みたいな、本当に情報ばかり先行した偏った考えで機材を買ってました。今なら、当時の自分に色々アドバイスが出来ると思うんですが(笑) 今となっては作業部屋には最少限の機材しかなく、五線紙に戻っているのが不思議ですよね。



運命を変えた事件その3
井野健太郎さんとの出会い。

井内: 学生の時からそうやって制作現場に出入りする日々が続いたある日、21歳の時にある現場でアシスタントをやってたエンジニアの井野健太郎君と出会ったんです。歳が同じ事もあり、彼と話してみると、偶然にもすごく近所に住んでるということがわかって互いの家を行き来するようになり、アウトボードやエフェクターなんかを借りたり、アドバイスをもらったりと、付き合いが始まるんです。少年が一緒にガンプラ作る感じで、一緒にハンダ付けしてケーブル作ったり。また、他のレコーディング現場の話なんかも聞いて勉強したり。彼とはその後、20年近く関係が続いていますが、中西さんと井野君の2人に20代前半で出会えたというのが、自分のキャリアにとって大きな財産ですね。

R:井内さんの人生に影響を与えた運命の2人ということですね!あぁ、地元のコンサートで見たロシアの神童も含めると3人でしょうか(笑)? ところで、大学の方はどうなったんですか?

井内: 杏里さんとピーボ・ブライソンの曲の弦アレンジをする機会を頂いたりするようにもなり、現場でのスタジオワークが面白かったんですが、大学は、残り卒業試験だけ受ければ卒業という状態でドロップアウトしたんです(笑)。行きたい道が見つかったから進むという感じだったので、後ろめたさみたいのは全くないです。そうやって、フジテレビのドラマの現場を始めとして、29歳の頃までの約10年、フリーランスとして現場で働いてました。でもですね、人から「自分が音楽で何を表現したいのか?」みたいなことを聞かれると、自分では全くわからなかったんです。中西さんも「君は耳もいいし、譜面も書けるし、打ち込みも上手いんだけど、自分ではどうなりたいの?」と聞いて下さるんですが、自分でどうなりたいのかわからない。。。




曲を書き出すきっかけはあるアーティストの一言。

R:現場での仕事は充実されていたとのことですが、井内さんの中にはアーティスト指向はなかったんですか?

井内: 全くなかったです。多分、小さい頃から音楽が身近にありすぎたので、音楽を職業の対象として向き合うことがなかったのかもしれません。自分のやってることに対して、客観性を持って見る事がなかったんでしょうね。でも、ある日、某女性アーティストと仕事をする機会があり、彼女から「あなたはピアノも上手いし音楽も詳しいのに、なぜ曲は書かないの?」と聞かれたのですが、その時初めて、「あ、僕、曲書いていいの?」と思ったんです(笑)。それをきっかけとして曲を書き出したんですが、自分の表現として音楽に向き合う姿勢に変化が生まれました。

R:それは意外ですね! 学生時代はピアノ科で、プレーヤーという意識が大きかったからでしょうか?

井内: そうかもしれません。現場では歌もののアレンジなどの仕事もするようになるのですが、それまでマイケル・ジャクソンの1枚しかちゃんと聞いていない訳ですから(笑)、ポップスとしてのセオリー的なものが全く知識としてないので、例えば、サビまで繋ぐ作り方がわからなかったり、下手したらイントロが2分続いたり、、おかしなことになっちゃってたんですよ(笑)。ある意味、色んな事から逃げ続けて今にいる感じですかね〜(笑)。

R:ある意味、ピュアとも言えますが、才能があり、自分に自信があるからこそ、とも言えるのではないですか?

井内: それはどうでしょう? 大学ではピアノしか弾いてなかったし、音楽理論の勉強もやってなかったし。唯一、自分を褒める事ができるのは「好奇心」だけだと思います。

R:では、フリーの期間の後、今の事務所(IMAGINE)にはどうやって入られたんでしょう。そのあたりのお話をお聞かせください。

井内: 自分でフィールド・レコーディングした素材を使って、エレクトロニカ・テイストの楽曲を作っていたんですが、その音が東京コレクションに参加するファッションデザイナーの人の耳に届いたらしく、自分の曲をファッションショーで使いたいというオファーをもらいました。その人のために作ったデモテープがあったんですが、担当していたソニーのディレクターさんがソニー・コンピュータエンタテインメントにも籍を持つ方で、その方を経由してソニー・コンピュータエンタテインメントの開発の方まで届き、ソニーさんにお伺いしたんです。そこには、翌年発売のPlayStation®3が置いてあって、自分の曲をPlayStation®3の内蔵アプリケーションに使いたいとお話しを頂きまして、そこからグランツーリスモなどの仕事に繋がっていくんです。

R:ゲーム好きにとってはこの上ない話じゃないですか!

井内: そうなんです(笑)。打ち上げの席で、そのディレクターさんと飲んでた時に、僕が業界に入った経緯を聞かれたんです。僕は「劇伴作家さんでいうと、田中公平さん、大谷幸さんや菅野よう子さんの作品が大好きで、大谷幸さんが書かれた「ワンダと巨像」というゲームの音楽がすごくて大好きなんです。」という話をしたら、席にいらっしゃったソニー・コンピュータエンタテインメントの方々が爆笑されて、「そのゲームを作ったの、俺ら2人だからさ。」ということだったんです。その後、僕とそのお二方と、先ほど話したエンジニアの井野君も交え、今思えば間違った使い方をしてたんですが、出始めたTwitterを公開連絡網みたいなことに使ってたのですが、そのやりとりを見ていた今の事務所の作家さんから、「どういう音楽を書かれてるんですか?」といった内容のメッセージを頂き、「では曲を聞いて下さいと。」返信したらすぐにお電話を頂いたんです。「事務所に遊びに来ませんか?」と誘われて行ったのが、今の事務所のIMAGINEでした。それで、IMAGINEへ伺って初めて知ったんですが、田中公平さんと大谷幸さんがIMAGINEに所属されてたんです(笑)。

R:すごい展開ですが、笑えますね。巨人軍にスカウトされたのに、松井が巨人だって知らないみたいな、、、(笑)。




劇伴に一番近いのは嗅覚!?その意味するところ

R:井内さんに弊社メールマガジンで連載していただいた「劇伴一直線」ですが、劇伴に対する井内さんの情熱を行間からひしひしと感じましたよ!それに、井内さんならではの独自な映像演出に対するお考えというか、感性というのも感じましたがどうでしょう?

井内: 最近、作曲をしていて思うのですが、映像を音楽で演出する感覚は人間の五感でいうところの「嗅覚」に一番近いような気がするんです。

R:聴覚でなく嗅覚なんですか? おもしろい意見ですね。それはなぜでしょう?そのあたりをお聞きしたいですね。

映像作品の演出って、編集などの見せ方によって時間軸を変化させたり、現実と空想を区別したり、誰の視点で描かれているのか、などといった解釈が大きく変化していくのですが、それらの映像作品を観客として見る私たちは、その物語の中で起こっている事を全て見ることのできるある種「神様の視点」を与えられているんですよね。劇伴作家の役目は、その観客に状況や心情を説明する役目を担うのと同時に、感動を後押しするという大役も任される訳ですが、実はそれらとは別に「作品の印象付けをする」という陰の役目もあるような気がするんです。視覚的な情報というものは、例え絵が描けなくともCGや色味、作画に関して意見を言いやすいのに対して、音楽は素人でも玄人でもその印象に対して意見や感想を持つような気がするんです。例えば、行ったこともない世界の草原に主人公が立っているシーンがあったとして、そこで少し物寂しい音楽をあててみると不思議なことに、何故か望郷の念にかられたり、風が吹いていないのに風を感じたり。季節によって変化していく香りを感じた時に、ふと過去の記憶が甦ったりする体験をしばしばするのですが、何だかその感覚に音楽も近いな、と思うんですね。

R:それはユニークな捉え方ですが、なるほど、その例えを聞くと「嗅覚説」が説得力を持ちますね。

井内: さらに面白いのは、僕の周りの活躍してる作家さん達はグルメで料理好きが多いんですよ。その仲間と、この話で盛り上がった時に行き着いた答えがあったのですが、出来るだけ美味い物を食べて、いい景色を見て、いい音楽を聞いて、聴覚、視覚、嗅覚を始めとする五感を研ぎ澄まして行く事が、インスピレーション、いわゆる第六感を得ることに繋がっていくことだと思うんです。思い起こしてみると、今の落ち着いた環境に引っ越して来て、衣食住の豊かさを楽しむようになってから、作家として書き物の方向性が定まってきたような気がするんですよね(笑)。

R:確かにここは静かで落ち着いた場所で、井内さんにとって絶好の「プラットフォーム」といった印象を受けます。ここで創作の日々を送られているわけですね。毎日はどんな感じなんですか?

井内: 学生時代、朝5時に起きてピアノの練習をしていたと話しましたが、今でも朝5時に起きています。散歩してシャワーを浴びてコーヒーを淹れたら、まずは鍵盤なしで、ひたすら五線譜にスケッチを行うんです。それが自分の中で音とリンクしたら、初めてコンピューターに向き合うようにしています。いきなりシーケンサーを立ち上げると、BPM120や4分の4拍子といった、最初から与えられた情報を捨てるところから考えなければならないことが非常にストレスなんですね。視覚が支配する力って大きいですから、そこに自分の創作源が制限されてしまう気がするんです。

R:なるほど、さっきの「嗅覚説」からの流れですが、第六感を招く姿勢でいるということですね。では、井内さんの今後の予定や将来へのビジョンみたいなのがあればお伺いしたいと思いますが、例えば海外で仕事をすることへの興味は?

井内: 劇伴作家が天職だと思いますし、田中公平さんや大谷幸さんの作品に憧れ、同じ事務所にも入る事ができたので、夢が叶ってしまったという感じはありますが、ようやく作家としての入り口に立ったのだな、という想いの方が強い気がします。演出手法として日本のアニメが大好きなので、特に海外に移り住んで仕事をしたいという感じではないですが、ハリウッドで活躍する友人の話を聞くと、ワークフローの部分で日本はアメリカに遅れをとっていると思います。食文化には、和食と洋食のそれぞれの良さがあるように、音楽にもやはり和食と洋食に近い区分があるように思いますが、メソッドやシステムなどに関しては沢山学ぶことがあるので、機会があれば現地に訪れ体感したいという気持ちはあります。それを日本の現場に還元できるなら、素晴らしいですよね。

R:では、最後の質問です。井内さんにとって音楽とは何ですか?

井内: ライフワーク、じゃないでしょうか? 食事を作って食べたり、お風呂に入るのとあまり変わらないし、仕事とは思ってないし、趣味とも違いますし。仕事を抱えていなくても毎日作曲をしたり楽器を演奏したりするので、やはり、ライフワークという言い方が一番しっくりくるように思います。

2015年3月、ビクター青山 301スタジオにお招き頂き、井内さんが音楽を担当されたアニメ「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」の音楽収録を見学させていただく機会がありました。ミュージシャンに曲の解釈ヒントを丁寧に与え、また、エンジニアには進行の合図をてきぱきと送り現場を仕切る井内さんの姿に圧倒されましたが、こうやって紆余曲折あったキャリアのお話をお伺いし、井内さんの意外なパーソナリティを覗くことができました。単なるBGMと一線を画す、映像演出としての音楽に対する想いを熱く語る井内さん。ご自身で「天職」と言われる劇伴への想いが強く伝わるインタビューでした。


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